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Part1

第1部 母が痴呆になった


計算ができなくなった母

 「この計算はどうやってするのかしら。忘れちゃった。」

恥ずかしそうに、母が私のところに聞きにきた。
右手には紙切れを、左手には電卓を持っている。

右手に持っていた紙切れを私に見せたが、


200:70=□:100


のような式が書いてあった。

「なぜ母が、このような計算をする必要があるのだろう」と思ったが、昔から算数が得意なはずの母が、「計算がわからない」と質問をすること自体が不思議に思えた。

私が小学生のころは、母は私と同じくらい算数の問題が解けていたから。 

私が小学校の1年生のとき、家族5人は都内の文京区に引っ越してきた。東五軒町という都電の停留所近くで、小さな商店街の入り口付近の家を借りて、母は商売を始めた。
昭和27年のことであり、日本はようやく戦後の混乱から落ち着き始めた時期ではないかと思う。
父は料理人であり外で勤めていた。母は家を借りた場所の1階で、小さな菓子店を開いた。その2階に我々が住むことになった。
ただ寝るだけの感じの非常に狭い場所だったので、元気な男の子3人は、外で遊んでばかりいた。
今のお菓子類は、あらかじめ袋詰めされていて、コンビニなどで売られている。でも、母の店では、お菓子は量りながら売っていた。かりんとうや甘納豆といったお菓子には、200匁70円などという値段が、お菓子のケースに張られていた。まだ尺貫法が使われていた時代で、単位はグラムではなく、匁(もんめ)であった。
そのようなお菓子を100円だけ買いたいお客さんには、どれくらいの重さのお菓子を袋に入れればよいのかという計算を、母は毎日行っていた。質問に来たときのメモにあった計算は、暗算でもできていたはず。
長男の私は、店を手伝わされることが多かったので、学校の算数の時間で、割り算や比などを習う前に、そのような計算のしかたを母から教わっていた。
実際には早見表を見るように言われただけであるが、何度も表を見ているうちに、その規則性などを自分で見つけることができていた。私が学生時代に算数や数学の成績が良かったのは、そのような母の訓練のおかげだと思う。
母が質問に来たときは、左手に電卓を持っていた。「この計算どうやってするのかしら?」と聞いてきたので、電卓での計算方法が分からないのだろうと私は思った。
  「内側の二つと、外側の二つをかけると答えは同じになるから、これとこれをかけて、これで割ればよいのだけれど」と言って、電卓のキーを押しながら説明してあげた。
電卓には答えの数字が残っているが、母は「ありがとう」と言って、数字をクリアした。そして、私と同じように電卓の操作をしてみせた。電卓の答えは、正しい数字を表示していた。
「もう一回やるから見ていて」と、母は再び計算結果をクリアして、同じ操作を繰り返した。やはり、電卓の答えは正しい数字になっていた。

私は高校の教員をしていたが、質問に来た生徒に「もう一回やるから見ていて」と言われたことは、一度もない。その場で確認をする母を見て、私が小さい頃に「母はとても頭が良いな」と感じていたことを思い出した。
雑誌に掲載されている覆面算などの問題には、よく挑戦していたし、私が小学校から帰ると、「今日はどんな勉強をしたの?」と毎日母は聞いてくるのだった。自分に教えさせることによって、学校で習ったことを復習させようとしていたのかもしれないが、小学生の私は、戦争中で若いころに勉強できなかった母が、学校で勉強したいのだと思っていた。
電卓で2回計算した答えが同じになると、母は満足そうな顔をして自分の部屋に戻っていった。やはり電卓での計算方法がわからなくて聞きに来たのだと、そのときは思った。
1時間くらいたって、母がまた「この計算どうやってするのかしら・・・」と言いながら質問にきた。今度は右手に本を、左手に紙切れを持っている。紙切れは、前と同じものだった。
右手に持っていた本は編み物関係のもので、開いていたページと紙切れの数字を比べると、本に載っているサンプルをもとに自分で編みたいものの目の数を計算したいのだということがわかった。
母は編み物が得意で、私のスキー帽や手袋、セーターなどをよく編んでくれていた。久しぶりに編み物をしようと思ったらしいが、その計算方法がわからなくなったらしい。
今度は筆算で計算して見せてあげたが、良く理解できなかったらしい。自分では確認しようとせずに、不思議そうな顔をして、私が計算をした紙を持って自分の部屋に戻っていった。
私が母の異変に気がついたのは、この時が初めてであった。編み物の計算ができなくなったためか、その後、母が編み物をしている姿を見かけることはなくなった。


商売熱心だった母

母は70歳を越えていた。それでもまだ文京区の小さな店を続けていた。50年近く続けていたことになる。その頃は、10歳年上の父も会社勤めが終わって、店を手伝っていた。
母の店で扱う商品は、最初はお菓子だけであったので、お客さんも少なかった。店の近くには印刷関係の会社や工場が多かった。母は、従業員がお昼にパンを買いに来てくれると思ったのだろう、すぐにパンと牛乳を仕入れて売ることにしたようだ。当時は小学校の給食がなかった時代であった。私のお昼の弁当は、店から持ち出すコッペパン1個になった。母は私の弁当を作る手間も省いたのである。
母は若いころから美人であり、愛想も良いので、店は繁盛するようになった。商売のやりかたも上手だったのだろう。
扱うパンや牛乳は、時々変わっていた。立地条件がよく、各メーカーからの良い条件での売り込みが激しかったのだと思うが、昨日まで扱っていた商品をすぐに変えてしまう母を、私は好きにはなれなかった。
元気な男の子3人を育てるために、少しでも儲かるような方法を母は選択していたのだと思うが。
母は、印刷関係の会社の人たちに頼んで、内職を紹介してもらっていた。印刷された紙を折ったり、封筒を作ったりという内職が多かった。店が暇な時は、店の奥で作業をしていた。私もずいぶん手伝わされたものだ。

「これを1個作ると1円になるのよ。」

母は、楽しそうに内職をしていた。生活に困って内職をしていた感じではなく、店が暇な時間にも仕事をしたかったのだろう。
本当に母は商売が上手だったのだと思う。朝早くから夜遅くまで働いて、暇なときは内職をしていたわけだから、お金も貯まったらしい。3年後には都電で停留所一つ先の新宿区内に家を買うことができた。
私は現地を見て広い家ができると思い喜んでいたが、そこをアパートにして、ほとんどの部屋を人に貸すのだと言う。
父の会社からだいぶ借金をしたらしいので、家賃収入で早く返したいのだということも聞かされた。
それでも、我々の住まいは確保できた。狭い店の2階よりもずっと快適であった。

家族5人が住める場所を確保できたのだから、母は店を早く終わらせて夕飯の支度などをしてくれるのだと思っていた。しばらくは、そうしていたが、そのうち母は田舎の佐渡から自分の母親を呼び出して、我々子供たちの面倒を見させた。母はあい変らず夜遅くまで店で働くことを続けた。
母が商売に恵まれていたのは、近くの大通りが高速道路や地下鉄の工事、川の補修などで十数年間も連続して工事が行われていたことだと思う。近所の印刷関係の固定客に加えて、そのような工事関係の多くの作業員が店を利用してくれていた。
人通りが多く、商売には良い場所だったので、いろいろな売込みがあったのだと思うが、母が判断して始めた新しい商売は、すべて上手くいっていたような感じもする。
当時は電話がある家が少なかった。今の若い人には呼び出し電話という制度は見当がつかないだろう。そういう時代に、公衆電話を早くから導入していた。多い時期は3台の赤電話が狭い店頭に並んでいた。
人がいなくても稼ぐ機械への関心が高まったのだろう、自動販売機も導入も早かった。自動販売機は夜間にも稼いでくれるので、母は喜んでいた。自動販売機の商品の管理は私や弟に担当させた。
印刷所の職員の方から収入印紙も扱って欲しいと頼まれたら、郵便局と交渉して切手などの扱いも始めた。 
最近はコンビニでいろいろな商品を扱っているが、当時の母の小さな店もそんな感じであった。それだけの商品を扱うため忙しくなると母一人では大変なので、田舎から若い女性を紹介してもらい、店を手伝ってもらっていた。多いときは3人の女性を雇っていたと思う。佐渡の若い女性も、東京で仕事ができるので、喜んで来てくれたのだろう。小学生のころ、私は毎年のように佐渡で夏休みを過ごしていたが、子どもを田舎に連れていく一方で、従業員のスカウト活動もしていたわけだ。
私は、商売熱心な母を見て、「そのうちタバコも扱うかもしれない」と思っていたら、店を貸していた大家さんが、隣でタバコ屋を始めてしまった。
一番儲かったのは調理パンだったらしい。料理人だった父が会社を辞めたら、店で調理パンを作って売り始めた。焼きそばや卵など、いろいろなものをパンに挟んで売っていた。これが面白いように売れていたようだ。
このころは、朝の4時ころに父が店に通い、それからしばらくして母が通っていた。両親は新しいメニューの開拓を常に考えている感じだった。
世の中が贅沢になると、母のような小さな店では客足が途絶えてくる。税務署に提出する書類の計算は私も手伝っていたので、年々売り上げが減っている様子がよくわかっていた。
「いつでも店をやめてもいいけれど」と言いながら、細々と二人で店を続けていた。母は住まいの新宿区よりも、店のある文京区の方に知人が多いので、商売をするというよりも、近くに話し相手がいるので店に足を運んでいた感じもする。
「ほとんど売れなくなったし、店をやめようかしら」と何度も相談されていたが、「店をやめるとぼけるから」と言って続けさせていた。それでも、「最近、計算を間違えたり、おつりをもらいそこなったりしている」と嘆くことが多くなっていたので、そろそろ限界かもしれないと感じていた。
高齢の父は脚のぐあいが急に悪くなり、まともに歩けなくなっているので、ぼけ始めている母のことも考えて、店をやめさせることにしたが、本当は、母は店を続けていたほうが良かったのかもしれない。
仕事をやめるとぼけると言われるが、母の場合は、店をやめる前からぼけ始めていた。また、自分でもそれを感じていたはずだ。


お金を気にしだした母

私が結婚するようになってから、両親はアパートの経営はやめて、我々に2階を提供してくれた。両親は1階で過ごしていたが、食事などは自分たちで作っていたので、1階と2階とでは、それぞれ別々の生活になっていた。私は家にいることが少なかったので、両親がどのような生活をしていたのかよくわからなかった。ただ、脚が悪い父は外に出かけることが少ないため、昼間でも良く寝ていることは知っていた。糖尿病などたくさんの病気を持っているので、少しでも体力を温存していたのだと思う。
二人で店をやっている時も、父は昼間には自宅に戻ってきて昼寝をしていた。母は店が忙しくなっても父が戻らないと、「いつまで寝ているの」と電話で怒っていたらしい。
両親が店をやめて毎日自宅で過ごすようになると、母はますます寝ている父を見ては文句を言う機会が多くなったようだ。
母は趣味が多く、編み物のほか、生け花や三味線などもやっていた。時々は文京区の友達からの誘いがあって出かけていた。
趣味が多い人はぼけないと思っていたが、母の場合は、それにあてはまらないらしい。
逆に、父はあまり趣味を持っていなかったが、全然ぼけてはいなかった。温泉にいくことぐらいが楽しみのようだった。私の弟二人は、埼玉県と千葉県に住んでいて車を持っていたので、両親を誘って旅行に連れていくことが多くなった。仕事をやめた両親は、それを楽しみにしていた。
年に1度くらいは、両親と3兄弟で温泉などに出かけるようになった。どこの旅館でも「珍しいですね」と言われていた。確かに嫁や子供たちを残して、昔の家族5人だけで旅行をする例はあまりないのだろう。私が小さいころには家族5人で旅行をすることはほとんどなかった。それくらい両親は忙しく仕事をしていたわけだ。
ずいぶん遅くなってからの家族旅行だったが、両親は本当に喜んでくれていたと思う。父や母は、旅行先で昔の失敗談などをよく話してくれた。あの時代に男の子3人を大学に行かせたのだから、二人とも大変な苦労話があったのだと思う。
旅行中に母は、何度も財布を取り出しては、お金の心配をすることが多かった。食事代などを自分で出したのに、また支払おうとするのである。そんな様子の母を見て、二人の弟も母の痴呆には気がついていたと思う。

仕事をやめた母が家にいるときは、常にお金の心配をしているようだった。父が生命保険の支払いを銀行引き落としにしたら、今までのように保険会社の人に払ったので2重に払っているのではなどと、お金について父と口論する場面が多くなっていた。
ちょうどこの時期は、私自身が体調を崩して自宅にいた時だったので、両親の様子はよくわかっていた。もしかすると、仕事をしていない私を見ていて、   母はお金の心配を始めたのかもしれない。
両親の口喧嘩はますますエスカレートしていた。父が母の通帳までも管理していたが、母は自分の通帳やお金を自分で管理するように主張したらしい。でも、それをどこにしまったのかを忘れてしまい、父を追及するのであった。
生命保険がまもなく満期になるはずだと、毎日のように満期日を父に聞いていた。満期日になったら、自分ではお金をもらっていないと父を困らせていた。母は、お金に執着するタイプではないことは父も良く知っているので、この点については父も「病気だからしかたがない」と思っていたようで、それほど父も深刻に思っていない感じだった。
父も私も、「今度はどこに隠したのだろう」と笑いながら母が隠した通帳や現金を探した。
母がこの程度であれば、まだよかったのだが。


急に元気がなくなった父

母の痴呆が進むと、同じことを何度も父に聞くようになっていた。店に行く必要がなくなり、毎日家にいるわけだから、何度も何度も同じようなことを聞かされていた父は、相当辛くなっていたと思う。
そのうち、「朝から何も食べていない」と母が言い出すようになった。食後30分くらいでもすぐに言い出すこともあった。これについては、父もさすがに怒り出した。
食事を作っていたのは料理人だった父である。せっかく作った料理なのに、「まだ食べていない」と文句を言われて、相当に頭にきていたようである。
父も、「病気だから仕方がない」と思って、適当に対応してくれていれば、まだ良かったのだが、「今日は何も食べさせてくれない」などと言われては、おとなしい父も、顔を真っ赤にして怒っていた。
父は、痴呆の母に対して、まともに怒ってしまうことが多くなった。それで、母の痴呆もますますひどくなるという悪循環を繰り返していた。
父は夜中でも大声で怒鳴るようになった。たぶん、私に聞こえるような大きな声を出し、助けを求めていたのだと思う。

元気だった父も、痴呆の母を相手にしていて急激に衰えていった。
父は、糖尿病のために自分でインスリンを打っていたが、うるさい母から逃れるために朝食を食べずに寝てしまうことが多くなった。それで、低血糖のためにこん睡状態になり、危険な状態になって救急車で運ばれるということが続いておきた。
母は、特に病気を持っていなかった。自分の母親が亡くなった時に、高血圧のために危険な状態になったようで、しばらくは高血圧の薬を飲んでいたようだが、その後は日常的に薬を飲むことはなかった。定期的に病院には通っていて薬をもらっていたようだったが、本人は全然薬を飲もうとはしなかった。薬を飲まなくても、母はぐあいが悪くなるようなことはなく、依然として元気だった。
元気な母に振り回されて、急に衰えはじめた父のことが気になったので、私が母の相手をすることにしたのだが、こんなに長く面倒を見るようになるとは、少しも思ってはいなかった。もう8年間にもなるのである。
まだ、終わったわけではなく、これからも長く続きそうだけれど。